あまなつ屋

思ったことを、つらつらと。

夜の海

「夜の海ってどんな気持ちになる?」

そう告げたのは、今朝、泣きそうな目をしていた女の子。

 

「海に行こうよ」

それが始まりだった。

青春18きっぷでの初めての旅。

向かった先は茨城。

 

少しばかりのお金と、チェキ。

スマホは置いてきた。

 

いろんな人に助けられながら、到着したのは19時。

あたりは暗かった。

 

「飲み込まれそうになる」

そう彼女は告げた。

 

境界線の見えない、夜の海。

どこまでもどこまでも広がる黒。

 

「私は――」

 

風と一緒に、黒の中、どこかへ行けそうだった。

暗い気持ちで。

電話

あの日、いつもなら寝ている時間。

あなたとただ、静かに電話をしていた。

お互いを共有し、
お互いを確認し、
静かにこのときを楽しんでいた。

「ねぇ、見て」

カーテンを開けると、そこには
しらしらと、清らかな空があった。

「いつもは寝ている時間だから、この青は知らなかった」
そんな私の言葉に、
うれしそうに、いとしそうに、言葉を紡いでくれた。

そこにあるのは声なのに、
そばにいるみたいで。

すべてがいとしかった。

先ほどの記事を書いていて、思い出した詩がある。

それは、寺山修司の『海が好きだったら』である。

 

水に書いてもすぐに消える。

それを知ったうえで、寺山さんは自分のことを

「水に愛を書く詩人だ」と言う。

その理由は、

「たとえ/海に書いた詩が消えてしまっても/

海に来るたびに/愛を思い出せるように」。

 

この言葉にゾクゾクした。

消えてしまうけれど、書いたという事実は残る。

詩を言葉の羅列ではなく、愛だと言う。

だから水には愛が残り、

水の集まりである海には愛があふれているのだ。

 

母なる海には愛がある。

ひいてはあらゆる生き物にも愛があるということだろうか。

私たちは、世界は、愛であふれていると。

 

他の人はどう思っているのだろう。

この詩が好きな人と語り合いたい。

 

海を見ると、必ず思い出す言葉がある。

 

「海が見えた。海が見える」

 

林芙美子『放浪記』の一節である。

 

懐かしさと、安心感を得られる海が好きだ。

あの匂いも。

できれば、どうか、自然のある場所で見たい。

箱根に再び行ってお土産を買い、

宿泊駅に着いた。

 

行列のできたパン屋に並び、

ソーセージサンド、夏野菜のハンバーガー、バターロールを購入。

ソーセージサンドをほおばりつつ、海を目指して歩いた。

 

海岸へ到着。

そこはもう海だった。

浜はなく、消波ブロックには登れない。

歩いていると、魚釣り場が見えた。階段もある。

 

そこに座り、残りのパンをほおばった。

釣りをするご家族を眺めてほのぼのしつつ、

海の写真、漁船の写真を撮った。

 

かもめがいた。とんびがいた。

とても雄々しかった。

 

蛇足だが、夏野菜のハンバーガーがうまかった。

夏野菜がごろっと入っており、ソースもスパイシー。

バターロールはなつかしい、やさしい味だった。

 

とてもいい時間を過ごした。

毎週、このような時間を過ごしたいと思った。